まほろばをもとめて(2020)

まほろばって、「素晴らしい場所」って意味だって。

無名で始めたけれど、たしか11月頃にアカウント名を考えよっかな、と思い立って、この言葉と出合った。

このブログを始めたり、SNSに趣味アカをつくったり、今年は色々はじめてみた。それもこれも、まさに、私にとってのまほろばを求めてのこと。

そんなアカウントの趣旨にぴったりだなと思って、あとは「ほろば」っていう語感がかわいくて、お借りしている。

 

2020年中頃、このままじゃ息が詰まりそう…と膨れ上がった風船のような時期があった。自分のリアリティを離れたところに安全で居心地のよい場所を持ちたい、と思って匿名の世界へ踏み出し、まほろばを探し回った。

これがスタートでした。

次の年は始まってしまったのですが、2020年をすこしだけふりかえって、書き留めておこうかなと思います。

 

 匿名の世界では好きなものを好きと示すのはたやすくて、現実より簡単に同じものを好きな人とつながったりもできた。

NHKの100分de名著12月のブルデューディスタンクシオン』の回にて、

「好きなものを好きと言うのは、一つの生き方を示すこと」という話があった。

”「お前、そんなのが好きなの?」と言われた時の、存在まで否定されている感”

伊集院さんのコメントに、切実に同意した。

 

 現実ではこれが過酷な闘争になったりするが、匿名の世界では”匿名の世界だしな”ということで気楽に参戦できる。

とはいえ、投稿されたものから、知人に「これって…」って発覚することをめちゃめちゃ恐れたりもしている。

それでも、安全な場を得て、自分の好きなものに関する発信ができることは、本当に心を明るく軽やかにしてくれた。

それに、(たいしたことないことでも)自分というフィルターを通して何かを発信することに、前向きになれたのもとても大きな変化だ。

 

この転換点をもたらしてくれたのは、やっぱり斉藤壮馬さんを知ったことだと思う。

あぁやっぱりこの方の発信するものが好きだなぁと思う瞬間が何度もあった。

そして、その内容だけでなく、それを語るための言葉をたくさんもっていることが本当にすごいと思う。

 

100分de名著『ディスタンクシオン』にて、

「人が趣味について語るとき、界の中での位置を語っている」という話があった。

例えば、好きな映画監督はについて、映画界でどのジャンルで、どの系譜にあって、どういった点で他とは違って、”だから好きなのだ”ということを他の人に示している。

 

はじめは、”界の中のそこに魅力を感じるのわかります…!”と共感したりとか、

”そんな素敵な作品があるのか…”と新しい世界を知ったりとかで、斉藤さんに惹かれていた。

発信されているものが期待を裏切らない、というか。

特に『西瓜糖の日々』なんて、本当に自分がこれまで小説に抱いていた世界観が変わるくらい面白かった。小説にも、文章にも、表現にも、色々な形がある、と思えた。

そして次第に、「”自分が好きな位置はこのあたり”と示す姿が、これほどにかっこいいなんて」と思うようになってきた。

そして、他の人と「ここがいいよね」を共有するよさの手ざわりを、改めて確かめた。

 

だから自分も少しやってみようかなと思ったのが、たぶん一番原動力になった。

 

 

 

12月にリリースされた、斉藤さんの2ndフルアルバム「in bloom」。

今のところ、「いさな」が一番好きだ。視聴動画の段階からひとめぼれした。

奇しくも、私の大好きなものがいっぱい詰まっていた。

寛骨を残してもはや歩くことのないクジラ、海の音、生命賛歌、壮大な物語

そして「まほろば」まで歌詞に入ってるとあっては、射止められないわけないんだよね!

 

まほろばを求め 産声をあげた

斉藤壮馬「いさな」

 

 

最後はささやかな?ファンレターになりました。

2020は異質な年でした。それによって失われたもの、得たもの…。

多くの方が2021にin bloomでいられることを願って、2020にはバイバイです。

 

 

✕✕✕のハナシ

 ――ついこの前。

書店で吉田篤弘さんの本を探していたところ、『遠くの街に犬の吠える』を見つけた。

 

遠くの街に犬の吠える (ちくま文庫)


遠くの街に犬の吠える (ちくま文庫)

 

吉田さんの本はあとがきから読むことにしている。

ということで今回も後ろをペラリとめくると、「✕」について書かれていた。

「✕という記号にいたく感じ入って小説を書いた」とあるので早速パラリとめくると、確かに1ページ目に✕がたくさんある。

胸の底の方がざわざわし出し、指先から血の気が引いていくような気がした。

ある本の、あるページが思い浮かぶ。

私は文中に✕が並ぶ――伏字に、トラウマみたいなものがあるのだ。

 

 

 

 小学生か中学生の頃、『時をかける少女』から入って、筒井康隆さんの作品を数編読んだ時期があった。

筒井さんの作品は印象深くて、今でも大筋なら覚えている作品がいくつかある。

『パプリカ』は多分当時難しく思っていて、裏表紙のあらすじ以上の記憶がないが、男性の睾丸が握りつぶされるシーンは衝撃過ぎて覚えている。

 

そして、『パプリカ』以上にショッキングで、それ以来実家の本棚にそっとしまわれ、自分の中で手にするのもタブーになってしまった本がある。

『ウィークエンド シャッフル』という短編集だ。

(名前を忘れてしまっていたので検索した。)

ウィークエンド シャッフル (講談社文庫)

ウィークエンド シャッフル (講談社文庫)

  • 作者:筒井 康隆
  • 発売日: 2006/09/16
  • メディア: 文庫
 

 

目次や他の人の感想を調べてみていると、確かに読んだ記憶が戻ってきた。

さて、この中で当時小学生か中学生の私にとって一番ショッキングだったのが、おそらく『弁天さま』というタイトルで、突然家に押しかけたてきたひと(弁天さま。当時、あまりに変な感じなのでそういう嘘だったのではないかと疑っていた気がする)と交わるという展開もさることながら、ページ一面ほとんどが✕だらけ、伏字だらけだった。

テレビで言えば、砂嵐になっている中「ピー」が飛び交っているというような状態か。

前後から、どういうカテゴリの言葉が伏せられているのか、子どもでもなんとなく察せた。

しかし、伏字。これは劇物だと思う。

暴力的なもの、性的なもの、倫理的にまずいもの、過激すぎるもの、言葉にして公開できないあらゆるものがそこにあることを示す記号だ。

『弁天さま』は伏字の魔窟だった。

これを思春期にゲリラ豪雨のように浴び、想像して、恐ろしくて、そして気分が悪くなってしまった。

 

過剰な想像力のスイッチを押されたのか、何か吸い取られてしまったのか。

以来伏字は、私にとって魔力をもつ不気味な記号として認識されるようになる。

 

 

――吉田さんの文章に目を落とす。

吉田さんによれば、✕という記号には正と負の共存―「ない」と「ある」の共存があるという。

「凶」という文字には✕が潜んでいる。この文字の由来を辿ると、古代の人は死者の胸に「✕」を刻み込んだという故事に行きつくらしい。「胸」という字に「凶」が刻み込まれているのはそうしたわけである、と。

「バッテン」が意味するもののひとつは、「墓石」と同等ではないかと思われます。「ないもの」「亡きもの」に記された「✕」であり、と同時に、ここに眠っていることを示す、目印としての「✕」でもあります。

(「文庫版のための後書」p.254)

なるほど、「この世にはもうないものがここにある」という、「ない」と「ある」の2つの意味を一つで表す記号。

 

吉野さんは続けて、「✕」が存在していないとわかっているものだけでなく、「ない」のか「ある」のか不確かな存在だったとしても、「ある」ことを記すものであると気付かせてくれる。

祖父は、子どものころに天狗を見た話を、たびたび聞かせてくれました。その不確かな存在は、祖父から引き継いだ自分の胸の中に、ひとつの「✕」となって、いまもあります。

(同上p.255)

たしかに、伏字が想像力を(過剰なまでに)掻き立てるのは、具体的な姿がつかめないのに、何かが「ある」ことだけは見た人の中にしっかり刻み込むという、不確かさの具現化にあるのかもしれない。

 

吉田さんがそう書いたからという理由だけで、すこし素敵なものに思えてきてしまう自分もいる。

うーーん。

”煙に巻きますよ。こっちの方がふしぎさが増して、面白いでしょう、ふふ。”

と、いたずら心でかけられた記号だと思えば、ちょっと、不気味なものじゃなく思えるかな…?

 

伏字だらけのページを覗いてみる。

すこし鼓動がどきどきとしたが、うん、なんだか違った気持ちでみえて……くる予感。

 

別日に改めて本を購入した。とりあえず読んでみる。

筒井さんの本はもうちょっとしてから、実家に帰った時にみてみようと思う。

 

 

子どもの頃にこわかったものを乗り越えていくというのはよくあるが、自分にとって「伏字」がその一つであるとは。

そんな✕✕✕も、自分だけの✕✕に思えたりして。

 

 

まねっこ

まねぶ ―とまなぶは語源を同じくする。

人は真似することで学ぶのだと。

 

思い返せば、色々なものをまねてきた気がする。

小学生の頃、金曜日の教育テレビを模してラジオのようなものをこっそり書いていたのがはじまりだったかもしれない。

次は当時映画が公開された『ブレイブ・ストーリー』の影響を受けて、同じような名前の主人公が、同じような旅をする小説を書いた。

その後も、その時読んだ物語や、観ていたテレビの影響を十二分に受けながら、色々なものを創作した。

 

今も、何か選ぶときは、よく作品や人物になぞらえたりする。

確固たる自分の羅針盤に従って決めていく方も素敵だが、

素敵だと思った作品や人物に寄りかかって進むのも悪くないのかな、と思う。

 

 

最近、また小学生の頃みたいに絵や物語をかいてみたい気持ちが高まってきた。

誰かに教えてもらうわけでもないから、自分でぼちぼち・こそこそとやっていく。

そのとき、模倣は、原点にして頂点たる学びの方法なのかもしれない、なんて思う。

 

 

県内の小中学生の描いたポスターの優秀作品が展示されているのを眺めていて、

一度ポスターや絵の勉強してから、ポスターを描いてみたかったかもなぁと思った。

いつも熱中しきれなくて、そこそこのところで提出していた。

飾ってある子どもたちの作品は、アニメ作品を思わせるような精密な感じだったり、ダイナミックな構図だったりして、バラエティ豊かだった。

みせ方が豊かになっているとすれば、アニメ作品やSNSの影響もあるのだろうか。

 

SNSにはイラストレーターから漫画を出版されている作家さんだけでなく、いわゆる一般人が描いた作品にも大量にアクセスして、学んだりすることができる。

最近では、鬼滅のイラストを真似して絵を描いた人が、子どもも大人も、たくさんいるだろう。

世の中にはこんなにイラストが上手な人がいるのだなぁと思う。子どもの頃は知らなかった。自分はちょっと絵が上手く描けて、漫画なんかも描いてみたりして、ちょっと特別かもしれないと思っていた。でも、そうではなさそうだと、わかってきた。

 

それでも、趣味でやっている分には別になんだってよい。はず。なんだよな。

 

それから、ただ絵が上手いだけでなく、完成した作品を生み出し続けること、模写だけでないものを生み出せること、が何かと何かの一線を画す条件にある気がしている。

 

 

でも、駆られることはない、と今のうちに自分に言っておきたい。

つくるなら才能のみえるようなものでないと、とか思ってしまう自分へ。そんなことはない、趣味での好きなことは、人目から離れて気ままにやっていったらいい。

時に承認欲求が高まったりするけど、どこか自分にとって安全なところを探して、そこに公開しておけばいい。多分私はそれで少なからず満足するし、もしちょっとだけ誰かからハートをいただけたなら、願ったり叶ったりだから。

 

生きている間で趣味は、心に従って満たされる時間に、自分がありのままでいられる逃げ場にしておこう。人と比べて自分を低く見積もったり、「こうでなくては」と自分で縛りをきかせているうちに命の切れ目が近づいてくる。

たとえ模倣ばっかりで、才能が本当になくっても、それで心が満たされるなら続いていく。続いてった先に何があるか、わからないんだし。

 

 

 

名前にまつわるエトセトラ

動物の数え方は「死んだ後に残るもの」で決まっている。牛や豚は一頭、鳥は一羽、魚は一尾…

そして人の数え方は「一名」

人が死んだときに残るものは「名前」だということ。

”名前”って、定義としては個体を識別する記号に過ぎないけど、実際はその存在を象徴するような哲学的で不思議なものだと思う。

山口慶明@girlmeetsNG さん 2020/8/18tweet)

 

人が亡くなり、体が無くなる。

それでも名前があれば、存在が時を超えることもできる。

 

既に有るものに名前がつけられるだけでなく、名前がつけられることで無から有になることもあるだろう。

外国には「肩こり」がないというのもそうだし、小説に出てくる想像の地名を訪れてみたいと思うのもそうだ。

 

 

名前と存在の関係は重要だと思う。

だから、その人の名前でその人を呼ぶという行為も重要な意味をもつ。

大人も子どもも、役職や家族での位置づけで呼ばれ続けるより、名前を呼ばれた方が親密に感じるだろう。

ゲド戦記」はジブリでしか見たことがないが、「真の名」に惹かれたのを覚えている。自分の正体である真の名を知られると他人に操られる危険があるため、みな人に教えない。終盤にアレンとテルーは互いの真の名を明かし合う。これは、互いの存在を分け合うほどのやり取りなのだ…と、どきどきした。

 

 

結婚。今は別姓が議論の中にあるが、ひと昔前なら「あなたの名前をください」はロマンチックな言葉だっただろうし、現代でも憧れる人がいてもいいと思う(自分が憧れているからでもある)。

 

私は過去に改姓したことがあり、「名前を変える」ことをそれとなく経験した。

完全に新しい姓に移行しきるまで、中途半端な期間があった。

ある書類では新しい名前、こちらの記名は前の名前、そちらの表記は前の名前に二重線を引いて新しい名前。2つの名前が入り混じった状態。

こちらから表記の変更を申請し、まわりの人に宣言しなければ、改姓したことは誰にもわからない。

 ―要は書類と意識の上での問題?―

 

これまでの人生を共にしてきた名前との別れに、これまでの自分と離別するような寂しさを想像していたけれど、

そう、失われるものは確かにあるんだけど、

記号上の問題でしかないところもあって、中身である私には案外変わりがないんだな、とういうことは思った。

 

 

というのも、改めたのは姓だからということもあるだろう。

下の名前が変わったならば、きっと別の自分のように感じるに違いない。

 

 

自分の下の名前に不満をもっていた時期があった。

小学生の頃、「美」が入る名前に強烈に憧れた時があった。

自分の名前の候補に「美」の入るものがあったことを知り、「なんでそっちにしてくれなかったんだ」と、一人カーテンの中で泣いた思い出がある。

 

そんな名前への認識が一変した。中学生の時。国語の時間。

前後の文脈は覚えていないが、先生が黒板に私の名前を書いて、熟語みたいになってることを説明して、何だか丁寧に扱ってくれた。

決定打は隣の席の男子だった。

なぜか、板書だからさも当然という感じでノートに私の名前を書き写し、

熟語のようになっていることを確かめるように、そして漢字の並びを味わうようなトーンで、先生の言葉を一度だけ繰り返して呟いた。

それを見て、自分の名前がすごく価値のあるものに思えた。

この光景は鮮明に覚えている。

 

 

 

例えば、なんとなくでつけられた名前、もある。

きっと、込められた意味や思いの如何で名前の価値が決まるわけでもない。

その人を特定する記号であることが大切なのだろう。

名前をもたないこともできるし、いくつもの名前をもつこともできる。

 姓+名以外の形の名前を自分にとっての「真の名」にしたり、

特に思い入れのなかった呼び方が、いつの間にか大事な記号になっていたりすることもあるだろう。

 

 

さて、この記事の名前―タイトルを決めねばならない。

タイトル決めはいつも大変だ。

本来は記事の内容を端的に表すものであるべきところだが…

名前と存在の関係、名前は記号であること、などなど……名前に関する色々なこと。

あえて細かい区切りを与えず、「エトセトラ」なんて、ごまかしておこうかと思う。

(最近買った斉藤壮馬さんの『本にまつわるエトセトラ』になぞらえたことを告白します。)

 

 

すべての人に雨は降り注ぎ、時は流れる

お題「わたしの癒やし」

後から振り返ってみると、出来事がなんとなくつながっていたなぁと思う一日がある。

ダヴィンチとレインサウンドとモネ。昨日はそういう日だった。

 

ダン・ブラウンダヴィンチ・コード

中学生の頃、映画が公開されたかと思う。学級文庫にあったので朝読書の時間に読んでみたが途中で挫折した、という思い出のある本だった。

嵐が丘』など読んでいたので、読むパワーは割ともっていた時期だと思う。なんで読むのをやめたんだっけ?

とにかく、「肉体を責め苦にする儀式」の描写があったことだけ鮮明に覚えていた。

 

それから数年経った現在。アルバイト先の先輩と本の貸しあいっこをした中に、この本があった。

 読んでみると、するすると進む。

展開や、キリスト教と美術にまつわる大量の蘊蓄が面白くてページを繰る手が止まらず、上中下の3巻を自分の中ではものすごいスピードで読み終えた。

睡眠時間を削る日もあった。どうして読書が深夜に突入するとあんなにも止まらないのか。

 

中学生から現在に至るまでに、美術展に足を運ぶようになったこと、フランスを訪れたこと、様々な本に出合ってきたこと―この本と再会する準備が整っていたのかもしれないなぁなんて思った。

 

レインサウンド

話はうってかわり、youtubeの話。

最近何かをする傍ら、自然の音の動画をBGMに流すことにはまっている。

川のせせらぎ、寄せては返す波の音、たき火、雷など…

中にはジャズ・ミュージックと自然の音をコラボさせたものもあって、とりわけ私が気に入っているのが雨の音との組み合わせだ。

 

外がせっかく晴天で晴れやかな気分にさせてくれるのに、わざわざ雨の道路がサムネイルになっている動画を選択したりしてしまう。

雨は自分がその中を歩く当事者にはあまりなりたくないが、部屋の中から傍観する分にはとてもいい。

 水の音に包まれることは、やはり生物にとってどこか特別なところがあるのだろうか。

 


Rainy Jazz: Relaxing Jazz & Bossa Nova Music Radio - 24/7 Chill Out Piano & Guitar Music

 

スピッツの「小さな生き物」に、「臆病な背中にも 等しく雨が降る」というフレーズがあって、それがとても好きだ。

高潔な背中にも、卑屈な背中にも、等しく雨が降って、世界を包み込んでいく雨。

 

モネ すべての時間をこめる”癒し”

ダヴィンチ・コード』を全て読み終え、レインサウンドを聴いて少し寒さを感じながら課題をしていた夜、集中が切れてきたので録りだめしていたテレビでも観ることにした。

NHK日曜美術館「”楽園”を求めて~モネとマティス 知られざる横顔~」

この番組は初めて見たが、とても面白かった。Eテレさんはやはりいい番組を提供してくださるなぁ。

 

番組の内容は、POLA美術館での斬新な企画展に沿いながら、印象派の巨匠モネと「色彩の魔術師」と呼ばれたマティスの共通点を探るというものだった。

産業化による社会の転換期、第一次世界大戦スペイン風邪の流行

芸術家にとって苦しい時代が続く中、2人は自分だけの「楽園」をつくり、そこで生活し、様々な作品を生み出していった。

 

番組の中で、印象に残った箇所が2つある。

一つは、多くの芸術家たちが共感したという、ある詩人の作品

生きるとは、病院に入っているようなものだ。

 「ここではないどこかへ!」

メモが間に合わず、検索してみたけど見つけ出せなくてこれだけしか情報を残せなかったが、これで十分であるともいえる。

産業化や社会の混乱で八方塞がりで苦しい思いに悶えていた当時の人々の重さには及ばないかもしれないが、

たしかに生きることには常に渇求や焦燥がともにある気がしてならない。

「ここではないどこかへ!」「もっといい人生がきっとある!」

 

読書とは、自分の人生が一つしかないことへの抵抗である―

という言葉をSNS上で見たことがある。

ダヴィンチ・コード』でキリスト教と芸術の関連を読み解く宗教象徴学者の人生の一部も体験したし、

Eテレでモネやマティスの、芸術に身を賭した人生の一部を体験することができた。

 

だけど、もっと知りたい。

何かを成し遂げた人、何も成し遂げられず苦しんでいる人、喜びの人生も悲しみの人生も。すべての人生に雨は降るし、太陽も降り注ぐ。

 

🎨

 

印象に残った箇所のもう一つは、オランジュリー美術館でのモネの「睡蓮」の解説。

展示室は「睡蓮」のためだけの空間になっている。

明るい光が差し込む白い展示室の四方の壁を4種類の「睡蓮」が飾る。鑑賞者は中央の椅子に腰かけながらゆったり過ごすことができる。

 

モネは睡蓮をモチーフにした作品を何枚も描いたと言われ、

この四方の壁を飾る「睡蓮」も、一枚ずつ季節や一日の中の時間帯が異なるという。

鑑賞者は展示室をぐるりと見渡すことで、季節や時間の円環を感じ取ることができるようになっているというのだ。

 

「4枚の睡蓮の中に全ての時間を込めた」と、解説が入る。

それによって、観る人を癒すことをモネは大切にしていた、と。

 

たしかに、”癒し”にとって”時間の流れ”は重要なパートナーかもしれない。

温泉では「ゆったりした時間」に非日常的な解放感を味わえるし、

夕焼けに惹かれるのは単に空が美しいからだけでなく、その中に「今日が終わる」ことへの慰労を感じるからだろう。

落ち込んだ時も、よく「時の流れ」が解決してくれるものだ。

 

気分が何となく落ち込んでいた時に海に行って、大発見したことがある。

<海はいつも動いている>ということだ。

自然はきっと動きを止めることがない。

たとえ私が落ち込んで動かなくなってしまっても、海水は動き続けているし、私の臓器や細胞も動きを止めることはない。

これに衝撃を受けた。

 

雨。雨もその姿でとどまることはできない。

道に落ちたら「水たまり」に変化してしまうからだ。

雨は流れる水の姿の一つだ。だから、レインサウンドに惹かれるのだろうか。

 

でも、今日は寒いので、たき火の音の動画にしてみようかな。

 

 

アイテム”スイカ”―西瓜糖と九龍での日々

イカの石鹸を買った。

少し実物より甘ったるい感じ、スイカバーが瓜の皮を身につけたような匂いがする。

 

これは不可抗力だったのだ。最近たまたま立て続けに出会ってしまったのだ。

とてつもなくスイカが印象的な2つの作品―リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』と、眉月じゅん『九龍ジェネリックロマンス』―に。

 

 ※ネタバレがあります。

 

『西瓜糖の日々』

西瓜糖の日々 (河出文庫)

西瓜糖の日々 (河出文庫)

 

作品について

コミューン的な場所、アイデス<iDeath>と、<忘れられた世界>、そして私たちとおんなじ言葉を話すことができる虎たち。西瓜糖の甘くて残酷な世界が夢見る幸福とは何だろうか…。

この小説は1964年の5月から7月の2か月間で書き終えられたという。

「詩的幻想小説」なるものを初めて読んだが、新しい世界に迷い込んだ、という気分になった。

全体的に一つ一つの章が短く、数行のものもある。短さが心地よく、さらさらと流れるように―深入りしない距離感で西瓜糖の世界の日々を眺めていく。

個々の章が完結したきれいな詩のよう。各章はゆるやかにつながって一つの物語を構成しているが、それにははっきりした輪郭があるわけではない、そんな感覚を受けた。

訳者の藤本さんが、「あとがき」でこう書いておられた。

各々の章は、物語の進行の中でそれなりの位置をたもちながら、それぞれ完結した時間を持ってもいる。(p.197)

あぁ、たぶん、それです…!なんと素敵に言葉を与えてくださるのだろう。

藤本さんの訳が素晴らしいという評判をみたのも、この本が楽しみだった理由の一つだ。

正直、小説本文に関しては作者も訳者も見分けはつかず、どちらもすごい…!と思うしかなかった。でもこの「あとがき」で藤本さんの紡ぐ言葉に触れて、言葉選びの繊細さというのか、訳業や書き物を仕事にされる人たちの言葉の力に、読後の余韻がさらに広がった。

 

「過度がない」 西瓜糖でできた日々

私が初読で一番気にかかっているのは、マーガレットが「いないかのように」西瓜糖の日々が描かれていくことだ。

 

藤本さんは「あとがき」で、西瓜に過度な甘さがないから、西瓜糖でできた村は過度な感じというのが不在な場所だろう、と書いている。

対照的に、インボイルとその仲間は過度な方向に向かう者たちであるとも。

 

物語の中でインボイルとその仲間たちは過激な印象が際立ち、彼らの起こした事件は、西瓜糖の村を襲った嵐のようでもある。

何かを強く望み、主張し、自分の感情を激しく乱す様は、きっとあの村ではひどく過度に映るのだと思う。

 

一方で、物語の中にはもう一人、強く自分の望みを主張し、嵐を巻き起こしたのではないかと想像できる人物がいる。マーガレットだ。

インボイルは過去の人であるのに対し、マーガレットは生きていた。

しかし、「わたし」の日々に存在感が漂うものの、その姿をつかむことはできない。

「わたし」とマーガレットがいかにして恋人関係を解消したかもわからない。

激しいやり取りも、そこにはあったのではないのだろうか?

 

そもそも、「わたし」の恋愛は強い欲求というより、「気に入った」という感覚が強いように思う(他の文学でもこういう恋をみることがあって、その度に、素敵に思いつつも不安定な結ばれ方にハラハラする)。

 

「わたし」を失ったマーガレットのことばかり考えて、果てには寄り添いたくなってしまう。

 

絶えず過度のないものが過度なく流れている。西瓜糖の村の日々。

なぜか食べたことのない西瓜糖の甘さが、舌の上で再現されていくようである。

 

 

 『九龍ジェネリックロマンス』

 作品について

此処は東洋の魔窟、九龍城砦。ノスタルジー溢れる人々が暮らし、街並みに過去・現在・未来が交差するディストピア。はたらく30代男女の非日常で贈る日常と密かな想いと関係性をあざやかに描き出す理想的なラヴロマンスを貴方に――。

連載中で、単行本は2巻まで発売中。この日記も、2巻まででの感想になります。

冒頭のタイトルが登場する見開きが圧巻。試し読みで「あ、これ、イイ」となり、早速本屋さんで手にしてきた。

 

まず、鯨井さんが魅力的だ。

主人公で表紙の女性だが、最初はそんなに惹かれなかった。

しかし、プロポーションがよすぎて、自分も女性だが釘付けになってしまう。腰の細さ、脚の引き締まり、姿勢のよさ。こんな魅力的に女性の体を描かれるの初めてみた、とさえ思ってしまった。

あと、寝起きの過ごし方がかっこいいし、目元が素敵だし、コミカルに怒ったり、新しいものすぐ買っちゃうところが可愛い。

特別な女性感と人間味のバランスが、きっと魅力の要因の一つだ。

 

また、演出がイイ。

画の構図という映画のよさと、文字面という小説のよさを複合した感じ。

どちらの要素も持つ「漫画」のよさを生かした作品という感じがする。

 

「あ、これは!」と感動した箇所がある。

ピアスじゃなくてイヤリングです。(第14話)

作中では”です”に傍点がついている。鯨井さんが工藤さんに言ったもので、鯨井さんはこの台詞を強調なしで言ったはずだ。

これは、言われた側の工藤さんにとって重要な傍点なのだ。

 

ここでは、耳についているのが”ピアスじゃない”ことではなく、語尾が敬語であることで、工藤さんは自分が勘違いをしたことを理解する。

文字での説明を要さない絵と、文字だからこそ伝えらえる台詞がくみ合わさってこそ生まれる表現なのではないかと思う。

以上は私の個人的な解釈だが、いつもお見事…と見入ってしまう。

 

その他にも、1巻の上着が風に舞うシーン、鯨井さんが月とジェネテラに振り返るシーン、2巻のエッグタルトのバースデーケーキ、水たまりに輝く2人の足元…

決して派手ではないけどドラマチックで、グッとくるシーンがたくさんある。

 

 スイカとタバコ

 なんでスイカとタバコってこんなに合うんだろう…(第1話)

鯨井さんが好む、スイカとタバコの組み合わせ。

インタビューによると、眉月先生のお母さまがされていたものだそう。

編集の方がそれは面白いエピソードだと食いついて、それで採用されたらしい。

鯨井さんの日常の中にある喜びとして何度も描かれ、印象的だ。

 

第3話では、この組み合わせが一つの転換点を生み出す。
鯨井さんが思いを寄せる工藤さんが、鯨井さんにとってスイカとタバコを組み合わせるのが”クセ”のようになっていると知って、少し驚いた顔をする。
そして、懐かしげに―それは工藤さんにとって恋に似た感情―同じ”クセ”を持つ人物がいたことを話す。
いいよな、そういうクセがあるって。知ってるクセを見つけたら嬉しいし、思い出せるだろ。そのクセの持ち主をさ。(第3話)
 
2巻まで読めばわかるが、”クセ”の持ち主はかつて婚約関係にあったとされる鯨井B。
第3話のこの場面が、鯨井さんが鯨井Bの存在を知る端緒となるのだ。
以降、鯨井Bの存在が物語にふわっと入り込んでいく。
イカとタバコが、九龍でごちゃごちゃになっている過去と未来の結び目を一つ浮彫りにする役目を果たしてしまう。
 
思えば、スイカはノスタルジーを誘う果物かもしれない。
一年のうち夏しか似合わない果物って感じがする。だからスイカは桜と同様、特定の時期にしか出合えない―時の流れを感じさせるところがあるのだろう。
イカをみて、スイカの傍らで過ごした過ぎし夏の日のことを思い出すのだ。
 
眉月先生はスイカに象徴的な意味を込められたわけではなさそうだけど、
過去を懐かしく思う、という意味で結構合うのかもしれないな、なんて思う。
 
2巻までの九龍は夏のようだが、秋冬へと移り変わっていくとき―タバコの相方がいなくなるとき、物語はどうなっていくのか、楽しみである。
 
 
▼インタビューはこちら
恋は雨上がりのように」でもスイカ(バー)…?!読みかえそ。

アイテム”スイカ

2つの作品についてとともに、

イカという存在が過度のなさやノスタルジーをより一層印象的に伝えているかもしれないということを書いてきた。

 

子どもの頃、特有の瓜感が苦手でスイカは得意でなかった。

しかし、近年突如としておいしさがわかるようになり、今ではあの透き通るような甘さの虜になっている。

 

イカの石鹸を手に取り、深呼吸がてら香りを吸い込む。

イカのささやかな甘さに浸る。香りに紐づいて、2つの作品のことを思い出す。

今しばらく、これが日々の楽しみである。

 

 

 

アニナナ2期 第5話の日

アニナナ2期第5話の放送日ー10月18日の話をする前に、フレーズプレートの話をひとつ。

 

アイドリッシュセブン<フレーズプレートコレクション5周年>と逢坂壮五の話

胸を高鳴らせながら開けると…

 

紫!そーちゃん!

そーちゃんは推し5本指に入るので嬉しかったのだが、5周年フレーズプレートに関してはもう特段嬉しい。

 

自分がアイナナの世界にいれば、そーちゃん的なキャラクターだと思う。

私は御曹司のような風格も聡明な感じもなく、ちょっとカッとなってパソコンを持ち上げたりもしないが、

いわゆる優等生なタイプで、人の目を気にして好きなもの好きって言えなかったり、すぐ相談すればいいことも色々考えて一人で抱え込んだり。で、それを怒られたり。

あぁ…わかる…という場面が多い。

 

だからこそ、そーちゃんが環や、他のみんなと出会って変わっていく姿はとても思い入れ深い。

フレーズプレートの商品ビジュアル公開されたとき、これは変わっていった逢坂壮五の言葉だ、と思った。一言で表せていすぎる(日本語が合っているのか)。

 

「出来ない理由を数えるのは、もうやめた。心を満たす勇気や希望を選んで繋ぎ、奏でよう。」

 

この言葉を見ると、人との出会いで変わっていった過程の勇気や、喜びや、尊敬や、そういった色々なものが思い出されて、溢れてくる。

「出来ない理由を数える」の私もやめな!と、励まされる。

 

そんなこんなで、そーちゃんのフレーズプレートには一層特別な思い入れを感じていた。

それが、当たった…。ご縁が!!ありました!

 

フレーズプレート、なんていい商品なのでしょう…エモすぎです…!

ありがとうございます!

 

そして、2020年10月18日。

アニナナ2期 第5話とその一日

第2部で特に好きと言っても過言でないところ。

天にぃの表情が豊かで新鮮みがあった。エンディングへの入り方が今回も絶品で、

そしてDESTINYの歌詞を調べてまたエモくなる。

イヤフォンで視聴していたので、最後の深く吐かれた天にぃの吐息が耳に吹きかけられたようで、動悸がしました(すみません)。

「言って!!」ってねだるところ、りっくんみが凄くて好き。

 

今年からハマった人なので、「天にぃが半年間ドアの外で待たされた」というエピソードや、「DESTINYここで…!やっぱりあの歌詞は…!」といった話は、他のファンの方の感想などを見てはじめて知るという感じだけれど、それも楽しい。

 

第5話で 天にぃも言っていたが、制作陣の皆さんが何時間もかけて素晴らしいものを作ってくださり、

さらに今回はTwitterの#でファンの方々も盛り上げたりして、あの時間はもっともっと素敵なものに仕立て上げられたのではないかと思う。

楽しみにしてる全国の人のことを思い浮かべていると、繋がっているような気さえした。

大げさすぎかもしれないけど、歴史的な感じの一日に一緒に立ち合うことができてよかったな、いい一日がみれたな…と、昨日を終えて、思います。