名前にまつわるエトセトラ

動物の数え方は「死んだ後に残るもの」で決まっている。牛や豚は一頭、鳥は一羽、魚は一尾…

そして人の数え方は「一名」

人が死んだときに残るものは「名前」だということ。

”名前”って、定義としては個体を識別する記号に過ぎないけど、実際はその存在を象徴するような哲学的で不思議なものだと思う。

山口慶明@girlmeetsNG さん 2020/8/18tweet)

 

人が亡くなり、体が無くなる。

それでも名前があれば、存在が時を超えることもできる。

 

既に有るものに名前がつけられるだけでなく、名前がつけられることで無から有になることもあるだろう。

外国には「肩こり」がないというのもそうだし、小説に出てくる想像の地名を訪れてみたいと思うのもそうだ。

 

 

名前と存在の関係は重要だと思う。

だから、その人の名前でその人を呼ぶという行為も重要な意味をもつ。

大人も子どもも、役職や家族での位置づけで呼ばれ続けるより、名前を呼ばれた方が親密に感じるだろう。

ゲド戦記」はジブリでしか見たことがないが、「真の名」に惹かれたのを覚えている。自分の正体である真の名を知られると他人に操られる危険があるため、みな人に教えない。終盤にアレンとテルーは互いの真の名を明かし合う。これは、互いの存在を分け合うほどのやり取りなのだ…と、どきどきした。

 

 

結婚。今は別姓が議論の中にあるが、ひと昔前なら「あなたの名前をください」はロマンチックな言葉だっただろうし、現代でも憧れる人がいてもいいと思う(自分が憧れているからでもある)。

 

私は過去に改姓したことがあり、「名前を変える」ことをそれとなく経験した。

完全に新しい姓に移行しきるまで、中途半端な期間があった。

ある書類では新しい名前、こちらの記名は前の名前、そちらの表記は前の名前に二重線を引いて新しい名前。2つの名前が入り混じった状態。

こちらから表記の変更を申請し、まわりの人に宣言しなければ、改姓したことは誰にもわからない。

 ―要は書類と意識の上での問題?―

 

これまでの人生を共にしてきた名前との別れに、これまでの自分と離別するような寂しさを想像していたけれど、

そう、失われるものは確かにあるんだけど、

記号上の問題でしかないところもあって、中身である私には案外変わりがないんだな、とういうことは思った。

 

 

というのも、改めたのは姓だからということもあるだろう。

下の名前が変わったならば、きっと別の自分のように感じるに違いない。

 

 

自分の下の名前に不満をもっていた時期があった。

小学生の頃、「美」が入る名前に強烈に憧れた時があった。

自分の名前の候補に「美」の入るものがあったことを知り、「なんでそっちにしてくれなかったんだ」と、一人カーテンの中で泣いた思い出がある。

 

そんな名前への認識が一変した。中学生の時。国語の時間。

前後の文脈は覚えていないが、先生が黒板に私の名前を書いて、熟語みたいになってることを説明して、何だか丁寧に扱ってくれた。

決定打は隣の席の男子だった。

なぜか、板書だからさも当然という感じでノートに私の名前を書き写し、

熟語のようになっていることを確かめるように、そして漢字の並びを味わうようなトーンで、先生の言葉を一度だけ繰り返して呟いた。

それを見て、自分の名前がすごく価値のあるものに思えた。

この光景は鮮明に覚えている。

 

 

 

例えば、なんとなくでつけられた名前、もある。

きっと、込められた意味や思いの如何で名前の価値が決まるわけでもない。

その人を特定する記号であることが大切なのだろう。

名前をもたないこともできるし、いくつもの名前をもつこともできる。

 姓+名以外の形の名前を自分にとっての「真の名」にしたり、

特に思い入れのなかった呼び方が、いつの間にか大事な記号になっていたりすることもあるだろう。

 

 

さて、この記事の名前―タイトルを決めねばならない。

タイトル決めはいつも大変だ。

本来は記事の内容を端的に表すものであるべきところだが…

名前と存在の関係、名前は記号であること、などなど……名前に関する色々なこと。

あえて細かい区切りを与えず、「エトセトラ」なんて、ごまかしておこうかと思う。

(最近買った斉藤壮馬さんの『本にまつわるエトセトラ』になぞらえたことを告白します。)