✕✕✕のハナシ
――ついこの前。
書店で吉田篤弘さんの本を探していたところ、『遠くの街に犬の吠える』を見つけた。
吉田さんの本はあとがきから読むことにしている。
ということで今回も後ろをペラリとめくると、「✕」について書かれていた。
「✕という記号にいたく感じ入って小説を書いた」とあるので早速パラリとめくると、確かに1ページ目に✕がたくさんある。
胸の底の方がざわざわし出し、指先から血の気が引いていくような気がした。
ある本の、あるページが思い浮かぶ。
私は文中に✕が並ぶ――伏字に、トラウマみたいなものがあるのだ。
小学生か中学生の頃、『時をかける少女』から入って、筒井康隆さんの作品を数編読んだ時期があった。
筒井さんの作品は印象深くて、今でも大筋なら覚えている作品がいくつかある。
『パプリカ』は多分当時難しく思っていて、裏表紙のあらすじ以上の記憶がないが、男性の睾丸が握りつぶされるシーンは衝撃過ぎて覚えている。
そして、『パプリカ』以上にショッキングで、それ以来実家の本棚にそっとしまわれ、自分の中で手にするのもタブーになってしまった本がある。
『ウィークエンド シャッフル』という短編集だ。
(名前を忘れてしまっていたので検索した。)
目次や他の人の感想を調べてみていると、確かに読んだ記憶が戻ってきた。
さて、この中で当時小学生か中学生の私にとって一番ショッキングだったのが、おそらく『弁天さま』というタイトルで、突然家に押しかけたてきたひと(弁天さま。当時、あまりに変な感じなのでそういう嘘だったのではないかと疑っていた気がする)と交わるという展開もさることながら、ページ一面ほとんどが✕だらけ、伏字だらけだった。
テレビで言えば、砂嵐になっている中「ピー」が飛び交っているというような状態か。
前後から、どういうカテゴリの言葉が伏せられているのか、子どもでもなんとなく察せた。
しかし、伏字。これは劇物だと思う。
暴力的なもの、性的なもの、倫理的にまずいもの、過激すぎるもの、言葉にして公開できないあらゆるものがそこにあることを示す記号だ。
『弁天さま』は伏字の魔窟だった。
これを思春期にゲリラ豪雨のように浴び、想像して、恐ろしくて、そして気分が悪くなってしまった。
過剰な想像力のスイッチを押されたのか、何か吸い取られてしまったのか。
以来伏字は、私にとって魔力をもつ不気味な記号として認識されるようになる。
――吉田さんの文章に目を落とす。
吉田さんによれば、✕という記号には正と負の共存―「ない」と「ある」の共存があるという。
「凶」という文字には✕が潜んでいる。この文字の由来を辿ると、古代の人は死者の胸に「✕」を刻み込んだという故事に行きつくらしい。「胸」という字に「凶」が刻み込まれているのはそうしたわけである、と。
「バッテン」が意味するもののひとつは、「墓石」と同等ではないかと思われます。「ないもの」「亡きもの」に記された「✕」であり、と同時に、ここに眠っていることを示す、目印としての「✕」でもあります。(「文庫版のための後書」p.254)
なるほど、「この世にはもうないものがここにある」という、「ない」と「ある」の2つの意味を一つで表す記号。
吉野さんは続けて、「✕」が存在していないとわかっているものだけでなく、「ない」のか「ある」のか不確かな存在だったとしても、「ある」ことを記すものであると気付かせてくれる。
祖父は、子どものころに天狗を見た話を、たびたび聞かせてくれました。その不確かな存在は、祖父から引き継いだ自分の胸の中に、ひとつの「✕」となって、いまもあります。
(同上p.255)
たしかに、伏字が想像力を(過剰なまでに)掻き立てるのは、具体的な姿がつかめないのに、何かが「ある」ことだけは見た人の中にしっかり刻み込むという、不確かさの具現化にあるのかもしれない。
吉田さんがそう書いたからという理由だけで、すこし素敵なものに思えてきてしまう自分もいる。
うーーん。
”煙に巻きますよ。こっちの方がふしぎさが増して、面白いでしょう、ふふ。”
と、いたずら心でかけられた記号だと思えば、ちょっと、不気味なものじゃなく思えるかな…?
伏字だらけのページを覗いてみる。
すこし鼓動がどきどきとしたが、うん、なんだか違った気持ちでみえて……くる予感。
別日に改めて本を購入した。とりあえず読んでみる。
筒井さんの本はもうちょっとしてから、実家に帰った時にみてみようと思う。
子どもの頃にこわかったものを乗り越えていくというのはよくあるが、自分にとって「伏字」がその一つであるとは。
そんな✕✕✕も、自分だけの✕✕に思えたりして。