アイテム”スイカ”―西瓜糖と九龍での日々

イカの石鹸を買った。

少し実物より甘ったるい感じ、スイカバーが瓜の皮を身につけたような匂いがする。

 

これは不可抗力だったのだ。最近たまたま立て続けに出会ってしまったのだ。

とてつもなくスイカが印象的な2つの作品―リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』と、眉月じゅん『九龍ジェネリックロマンス』―に。

 

 ※ネタバレがあります。

 

『西瓜糖の日々』

西瓜糖の日々 (河出文庫)

西瓜糖の日々 (河出文庫)

 

作品について

コミューン的な場所、アイデス<iDeath>と、<忘れられた世界>、そして私たちとおんなじ言葉を話すことができる虎たち。西瓜糖の甘くて残酷な世界が夢見る幸福とは何だろうか…。

この小説は1964年の5月から7月の2か月間で書き終えられたという。

「詩的幻想小説」なるものを初めて読んだが、新しい世界に迷い込んだ、という気分になった。

全体的に一つ一つの章が短く、数行のものもある。短さが心地よく、さらさらと流れるように―深入りしない距離感で西瓜糖の世界の日々を眺めていく。

個々の章が完結したきれいな詩のよう。各章はゆるやかにつながって一つの物語を構成しているが、それにははっきりした輪郭があるわけではない、そんな感覚を受けた。

訳者の藤本さんが、「あとがき」でこう書いておられた。

各々の章は、物語の進行の中でそれなりの位置をたもちながら、それぞれ完結した時間を持ってもいる。(p.197)

あぁ、たぶん、それです…!なんと素敵に言葉を与えてくださるのだろう。

藤本さんの訳が素晴らしいという評判をみたのも、この本が楽しみだった理由の一つだ。

正直、小説本文に関しては作者も訳者も見分けはつかず、どちらもすごい…!と思うしかなかった。でもこの「あとがき」で藤本さんの紡ぐ言葉に触れて、言葉選びの繊細さというのか、訳業や書き物を仕事にされる人たちの言葉の力に、読後の余韻がさらに広がった。

 

「過度がない」 西瓜糖でできた日々

私が初読で一番気にかかっているのは、マーガレットが「いないかのように」西瓜糖の日々が描かれていくことだ。

 

藤本さんは「あとがき」で、西瓜に過度な甘さがないから、西瓜糖でできた村は過度な感じというのが不在な場所だろう、と書いている。

対照的に、インボイルとその仲間は過度な方向に向かう者たちであるとも。

 

物語の中でインボイルとその仲間たちは過激な印象が際立ち、彼らの起こした事件は、西瓜糖の村を襲った嵐のようでもある。

何かを強く望み、主張し、自分の感情を激しく乱す様は、きっとあの村ではひどく過度に映るのだと思う。

 

一方で、物語の中にはもう一人、強く自分の望みを主張し、嵐を巻き起こしたのではないかと想像できる人物がいる。マーガレットだ。

インボイルは過去の人であるのに対し、マーガレットは生きていた。

しかし、「わたし」の日々に存在感が漂うものの、その姿をつかむことはできない。

「わたし」とマーガレットがいかにして恋人関係を解消したかもわからない。

激しいやり取りも、そこにはあったのではないのだろうか?

 

そもそも、「わたし」の恋愛は強い欲求というより、「気に入った」という感覚が強いように思う(他の文学でもこういう恋をみることがあって、その度に、素敵に思いつつも不安定な結ばれ方にハラハラする)。

 

「わたし」を失ったマーガレットのことばかり考えて、果てには寄り添いたくなってしまう。

 

絶えず過度のないものが過度なく流れている。西瓜糖の村の日々。

なぜか食べたことのない西瓜糖の甘さが、舌の上で再現されていくようである。

 

 

 『九龍ジェネリックロマンス』

 作品について

此処は東洋の魔窟、九龍城砦。ノスタルジー溢れる人々が暮らし、街並みに過去・現在・未来が交差するディストピア。はたらく30代男女の非日常で贈る日常と密かな想いと関係性をあざやかに描き出す理想的なラヴロマンスを貴方に――。

連載中で、単行本は2巻まで発売中。この日記も、2巻まででの感想になります。

冒頭のタイトルが登場する見開きが圧巻。試し読みで「あ、これ、イイ」となり、早速本屋さんで手にしてきた。

 

まず、鯨井さんが魅力的だ。

主人公で表紙の女性だが、最初はそんなに惹かれなかった。

しかし、プロポーションがよすぎて、自分も女性だが釘付けになってしまう。腰の細さ、脚の引き締まり、姿勢のよさ。こんな魅力的に女性の体を描かれるの初めてみた、とさえ思ってしまった。

あと、寝起きの過ごし方がかっこいいし、目元が素敵だし、コミカルに怒ったり、新しいものすぐ買っちゃうところが可愛い。

特別な女性感と人間味のバランスが、きっと魅力の要因の一つだ。

 

また、演出がイイ。

画の構図という映画のよさと、文字面という小説のよさを複合した感じ。

どちらの要素も持つ「漫画」のよさを生かした作品という感じがする。

 

「あ、これは!」と感動した箇所がある。

ピアスじゃなくてイヤリングです。(第14話)

作中では”です”に傍点がついている。鯨井さんが工藤さんに言ったもので、鯨井さんはこの台詞を強調なしで言ったはずだ。

これは、言われた側の工藤さんにとって重要な傍点なのだ。

 

ここでは、耳についているのが”ピアスじゃない”ことではなく、語尾が敬語であることで、工藤さんは自分が勘違いをしたことを理解する。

文字での説明を要さない絵と、文字だからこそ伝えらえる台詞がくみ合わさってこそ生まれる表現なのではないかと思う。

以上は私の個人的な解釈だが、いつもお見事…と見入ってしまう。

 

その他にも、1巻の上着が風に舞うシーン、鯨井さんが月とジェネテラに振り返るシーン、2巻のエッグタルトのバースデーケーキ、水たまりに輝く2人の足元…

決して派手ではないけどドラマチックで、グッとくるシーンがたくさんある。

 

 スイカとタバコ

 なんでスイカとタバコってこんなに合うんだろう…(第1話)

鯨井さんが好む、スイカとタバコの組み合わせ。

インタビューによると、眉月先生のお母さまがされていたものだそう。

編集の方がそれは面白いエピソードだと食いついて、それで採用されたらしい。

鯨井さんの日常の中にある喜びとして何度も描かれ、印象的だ。

 

第3話では、この組み合わせが一つの転換点を生み出す。
鯨井さんが思いを寄せる工藤さんが、鯨井さんにとってスイカとタバコを組み合わせるのが”クセ”のようになっていると知って、少し驚いた顔をする。
そして、懐かしげに―それは工藤さんにとって恋に似た感情―同じ”クセ”を持つ人物がいたことを話す。
いいよな、そういうクセがあるって。知ってるクセを見つけたら嬉しいし、思い出せるだろ。そのクセの持ち主をさ。(第3話)
 
2巻まで読めばわかるが、”クセ”の持ち主はかつて婚約関係にあったとされる鯨井B。
第3話のこの場面が、鯨井さんが鯨井Bの存在を知る端緒となるのだ。
以降、鯨井Bの存在が物語にふわっと入り込んでいく。
イカとタバコが、九龍でごちゃごちゃになっている過去と未来の結び目を一つ浮彫りにする役目を果たしてしまう。
 
思えば、スイカはノスタルジーを誘う果物かもしれない。
一年のうち夏しか似合わない果物って感じがする。だからスイカは桜と同様、特定の時期にしか出合えない―時の流れを感じさせるところがあるのだろう。
イカをみて、スイカの傍らで過ごした過ぎし夏の日のことを思い出すのだ。
 
眉月先生はスイカに象徴的な意味を込められたわけではなさそうだけど、
過去を懐かしく思う、という意味で結構合うのかもしれないな、なんて思う。
 
2巻までの九龍は夏のようだが、秋冬へと移り変わっていくとき―タバコの相方がいなくなるとき、物語はどうなっていくのか、楽しみである。
 
 
▼インタビューはこちら
恋は雨上がりのように」でもスイカ(バー)…?!読みかえそ。

アイテム”スイカ

2つの作品についてとともに、

イカという存在が過度のなさやノスタルジーをより一層印象的に伝えているかもしれないということを書いてきた。

 

子どもの頃、特有の瓜感が苦手でスイカは得意でなかった。

しかし、近年突如としておいしさがわかるようになり、今ではあの透き通るような甘さの虜になっている。

 

イカの石鹸を手に取り、深呼吸がてら香りを吸い込む。

イカのささやかな甘さに浸る。香りに紐づいて、2つの作品のことを思い出す。

今しばらく、これが日々の楽しみである。