恋は生もの ~『花束みたいな恋をした』

ずっと前になるが、数年務めたバイトの最後の日に、そのバイトで出会った大好きな先輩と『花束みたいな恋をした』を観に行った。

 

映画鑑賞後の帰りの車ではいつも観てきた映画についてあれこれと騒ぎ語るのだが、坂本監督が好きなその先輩は「恋は生ものってことだ」という旨のことを言っていた。

本作では麦くんと絹ちゃんが趣味がぴったり合うのをきっかけにぐんぐん惹かれ合い、恋人になる。しかし、次第にふたりは完全に”ぴったり”ではなく、しかもその違いをもちながら一緒にいるのが困難であることを悟って、別離することを選ぶ。

生花の花束は咲き乱れる瞬間を過ぎると枯れていってしまう、瑞々しい時期は限られている。恋も同じだと。

 

なるほどな、と思いつつ、同じようなことではあるけれども、私はすこし違った感じを映画から受けていた。

 

最近、創作物語は思考実験の部分があるよなと思っている。

本作品に感じたのは「完全に”合う”ようにみえるふたりの恋はうまくいくか?」だ。

あれもこれもと趣味が合って、同じ喜びを共有することができて、「こんなに合う人がいるなんて!」と思っていても、必ずしもうまくいかないということだろう。

当然のことともいえる。

確かに、”なんでも気が合う人”は居心地がいい。色々な考え方も自分に近いであろうから自分をありのまま出しやすいし、色々な場面でストレスが少ないだろう。人生のパートナーになることを見据えるのだったら、同じ方向を目指して二人三脚してくれる人であるという安心感は重要だ。

しかし、パートナーも別個の人間であり、お互いの環境がそれぞれに変化していくことを踏まえればずっとなにもかも”ぴったり”であり続けるのはちょっと難しい問題だと思う。むしろ”違い”を発見し、それをすり合わせたり、それ込みでふたりの関係をつくる過程が、「ふたりの恋が終わる」結末を避けたいのであれば重要なんだろうな、と映画をみて思った。

 

”現時点でのぴったり”が恋人になる確証となりえないとすれば、恋人の相性とは…?マッチングアプリとは…?と思考がとんでいく。

マッチングアプリを通してパートナーになる方はみえるであろうが、実際何がマッチングしたのか。ほんとうに宣伝にあるような趣味の分布図のマッチ度が決め手になっているのか。

 

人はどんな人ともパートナーになれるとはいえないとも、どんな人とでもパートナーになれるともいえそうな。

それを「全く趣味が一致する」というコメディ風味な設定で思考実験された映画であるように感じている。

 

ふたりが一緒にいるためには、どの時点でどうすればよかったのか…ふたりが辿った数年間的にあの結末以外には考えられないか…

恋は二人の間に生まれる生ものであることについて考えさせられる映画でありました。

あと、お互いの「麦くん・絹ちゃん」呼びと衣装がかわいかったです。