まねっこ

まねぶ ―とまなぶは語源を同じくする。

人は真似することで学ぶのだと。

 

思い返せば、色々なものをまねてきた気がする。

小学生の頃、金曜日の教育テレビを模してラジオのようなものをこっそり書いていたのがはじまりだったかもしれない。

次は当時映画が公開された『ブレイブ・ストーリー』の影響を受けて、同じような名前の主人公が、同じような旅をする小説を書いた。

その後も、その時読んだ物語や、観ていたテレビの影響を十二分に受けながら、色々なものを創作した。

 

今も、何か選ぶときは、よく作品や人物になぞらえたりする。

確固たる自分の羅針盤に従って決めていく方も素敵だが、

素敵だと思った作品や人物に寄りかかって進むのも悪くないのかな、と思う。

 

 

最近、また小学生の頃みたいに絵や物語をかいてみたい気持ちが高まってきた。

誰かに教えてもらうわけでもないから、自分でぼちぼち・こそこそとやっていく。

そのとき、模倣は、原点にして頂点たる学びの方法なのかもしれない、なんて思う。

 

 

県内の小中学生の描いたポスターの優秀作品が展示されているのを眺めていて、

一度ポスターや絵の勉強してから、ポスターを描いてみたかったかもなぁと思った。

いつも熱中しきれなくて、そこそこのところで提出していた。

飾ってある子どもたちの作品は、アニメ作品を思わせるような精密な感じだったり、ダイナミックな構図だったりして、バラエティ豊かだった。

みせ方が豊かになっているとすれば、アニメ作品やSNSの影響もあるのだろうか。

 

SNSにはイラストレーターから漫画を出版されている作家さんだけでなく、いわゆる一般人が描いた作品にも大量にアクセスして、学んだりすることができる。

最近では、鬼滅のイラストを真似して絵を描いた人が、子どもも大人も、たくさんいるだろう。

世の中にはこんなにイラストが上手な人がいるのだなぁと思う。子どもの頃は知らなかった。自分はちょっと絵が上手く描けて、漫画なんかも描いてみたりして、ちょっと特別かもしれないと思っていた。でも、そうではなさそうだと、わかってきた。

 

それでも、趣味でやっている分には別になんだってよい。はず。なんだよな。

 

それから、ただ絵が上手いだけでなく、完成した作品を生み出し続けること、模写だけでないものを生み出せること、が何かと何かの一線を画す条件にある気がしている。

 

 

でも、駆られることはない、と今のうちに自分に言っておきたい。

つくるなら才能のみえるようなものでないと、とか思ってしまう自分へ。そんなことはない、趣味での好きなことは、人目から離れて気ままにやっていったらいい。

時に承認欲求が高まったりするけど、どこか自分にとって安全なところを探して、そこに公開しておけばいい。多分私はそれで少なからず満足するし、もしちょっとだけ誰かからハートをいただけたなら、願ったり叶ったりだから。

 

生きている間で趣味は、心に従って満たされる時間に、自分がありのままでいられる逃げ場にしておこう。人と比べて自分を低く見積もったり、「こうでなくては」と自分で縛りをきかせているうちに命の切れ目が近づいてくる。

たとえ模倣ばっかりで、才能が本当になくっても、それで心が満たされるなら続いていく。続いてった先に何があるか、わからないんだし。