「ただ、ある」ものの愛し方―斉藤壮馬『健康で文化的な最低限度の生活』
人生で初めて芸能人のエッセイを買った。
アイドリッシュセブンの九条天の声優さん、なんかすごく顔が可愛い。知っているのはこのくらいだったが、読書家だと知ったりしてこの方の世界を覗いてみたくなり、少し悩んでから購入ボタンを押していた。
男性芸能人の写真がこんなにいっぱいある本は初めてで、どぎまぎしてしまった。
25の短い文章を1日2つか3つずつ、次次と進んでいきたくなるところにセーブをかけながら読んでいった。
静かに語られる文章に、時間が進むのを横目にゆっくり味わうよう誘われる。エモーショナルな雰囲気をまとってふわふわ浮遊している気分になるが、文章力は地に足がついた感じがする。これまで触れてこられた文化的なものの積み重ねを想像する。また語彙が豊かなのが素敵だ。
文章の魅力だけでなく、内容もぐっとくる。
日常の風景から短い物語を読んだ気分になれる章もあれば、好きなものを語るとみせかけて人生観を垣間見るような章もあった。
印象に残る章は読むときの心境によって変わっていくと思うが、「In the meantime」「ヒラエス、ヒラエス」の2つは別格だ。、ずどん、ときた。
特に「In the meantime」は他の人の感想の中でも名前を見かけたので、多くの人が撃ち抜かれたようだった。
※以下、本の内容にも触れながら所感を書いています。
「In the meantime」
タイトルをみてまず「TRIGGERや…!!」とひと呻き。
さて、この章では電子書籍が失いかけた読書の習慣を取り戻すきっかけになったと綴られているが、私にとってはこのエッセイを読むことだったと言える。
私も小さい頃から読書は好きだ。でも、ひとたび履歴書の”趣味”の欄を前にすれば、手は止まり、周りの友人という狭い世界と比べた結果「読む方かな」と自分を納得させ、控えめに文字を書き入れる。
自分の時間ができたらスマホに手が伸びるので、本は今や少し頑張って付き合わないといけない存在だ。…あれ、本当は読書そんな好きと違ったんかな?…という気すらしてくる。過去の自分にとって無くてはならない経験をくれたものなのに、なぁ。
こんな自分の状況を、勝手に重ね合わせた。斉藤さんの文章に誘われて自分の状況もみえるようになり、それに目を向けずにいられなくなる。きっとこれが「、ずどん」ときた要因の1つだ。
本全体はほのぼのの中にシニカルさが溶け込むくらいの感じなので、外から自分を冷静に見つめる鋭さが光るこの章は、一際存在感があるんだろう。
後半で登場する「楽になった」という言葉は救いの兆しを感じさせる。過去を支え、自分を形づくるアイデンティティとまで感じる読書。きっとだから読書には理想の形を思い描いていて、それを満たすのは「楽」ではなく、でも半端で関わるのは許せないから、他の趣味を「逃げ」と感じるのかもしれない。
そこへ現れた電子書籍は、読書の形態とともに理想へのこだわりから斉藤さんを解放した部分もあったのではないか…手軽で結構、と電子書籍はいってきたのかもしれない。
私にも素朴な「本を読みたい」の気持ちと再会する「その時」は訪れた。それまで文学以外は手に取ってきてなかったみたいだけどエッセイもすごくいいでしょ、とこの本の存在が教えてくれたのだ。と思う。
この本をとじた後、初めて詩集にも手を伸ばしてみた。それから、古典の現代語訳も気になりだした。そうすると、文学にもまた足先が向いていく。そんな感じで、この『健康で文化的な最低限度の生活』が人生で振り返った時に大事な1冊の一つになってそうだな、という気がしている。
「ヒラエス、ヒラエス」
もう帰ることのできない場所、あるいは初めから存在しなかった場所に対する郷愁や切なさを表す言葉(p.82)
どこで発掘してきたんですか?というようなエモい意味を持つウェールズ語(ウェールズ…語…って?!)が冠された章。
そして、この章で登場する「エターナる」現象。端的に言うと、「作り手が創作を断念しちゃって完成に至らず、作品が永遠に完成されないこと」だが、これも身に覚えがある。
小学生の頃、毎夜一人の時間を堪能していた。そして小説(のようなもの)や漫画(のようなもの)をこつこつと書き進め、家族が部屋に近づく音がすれば机に広げた宿題の下に隠し、心許した同志だけと見せ合った。
その時好きだった物語の影響をすぐ受けたので、これはあの本が好きだった頃のだなというのがすぐわかる。そんなたくさんの時間を過ごしたノートたちは、ずっと部屋の一角に仕舞い込んである。そして、そのほとんどが完成には至っていない。たくさんのお小遣いと資源を費やしたのに白いページは残るばかり…。
ゲームの中で未完のまま残されたいくつものシナリオのことを、「悲しいだけのものではないと思う」と斉藤さん。
「無数の放棄された物語が、誰も足を踏み入れることのない街が、語り手も聞き手も存在しないセリフが、決して救われることのない姫君が、現れもしない勇者を待つ魔王が、ひっそりと息を潜めて、ただ、ある。」(P.85)
この一文はとてもきれいで好きだ。まるで古代に滅亡した都市の遺産を空から眺め、そこであった物語に思いを馳せているような気分になる。
そして、部屋に仕舞い込まれたノートたちのことを思い浮かべた。ノートの中の主人公たちはどんな顔をしているか?続きを書かれるのを待ってるか?
…いや、「ただ、ある」だけなんだろう。私もいまや続きを書こうとは思わない。いつか捨てるかもしれない。でも、私だけはこのノートたちに、「勝手に生み出されて勝手につくるのを諦められた悲しい存在」以上の意味を与えてあげたいと思う。
ゲームの中で眠るシナリオの数々も、もう「ただ、ある」こと以外何もわからない。でもこのシナリオたちは、余暇を充実させたり、うまくいかなくて苛立たせたり、色々なものをつくり手に与えていたはずだ。
そして、色んな理由でつくり手たちがこのゲームから離れた結果、未完成なシナリオの数々がただ存在しているだけになった。その移り変わりに、今や0にも100にもなれない悲しさだけでないものが感じられるのかなと思う。
さて、この文章も何回も書き直しているわけだが、エターナる仲間を増やしてはいけない。ファンレターも書ききるのが大事だ。
「ただ、ある」をつくりだす―ヘミングウェイと斉藤壮馬とスピッツ
その存在自体はそれを見た人間の感情には関係なく「ただ、ある」。
全ての良いものもその実は「ただ、ある」だけなのかもしれない…。
そんな風に思いを飛躍させながら、一方でヘミングウェイの『老人と海』を読んでいた時のこと。訳をされた髙見浩さんの解説に目がとまった。
『老人と海』に寄せられた批評の中に、老人サンチアゴに、キリストの受難やイカロスの悲劇の寓話性を汲み取るものがあったという。
それに対して当のヘミングウェイは、手紙で「シンボリズムはない。海は海、老人は老人、少年は少年…以外の何物でもない」と語っていたことが紹介されている。
また、ある評論家は作品を読んだ後、”ヘミングウェイは読者に一つのキャラクターと一つのストーリーを与えている。そして読者はそれらが自分に示唆するシンボリックな特質を読み取ればいい。そのキャラクターやストーリーがリアリティをもって描かれるから、シンボリックたりえる”という趣旨の手紙を作家に送ったという。
へぇ…なるほど。
つくり手は、物語の世界をただ描ききる。読み手が、そこに色々なものを汲みとる。
話が広がるが、スピッツの曲はかなりこういう感じなのではないかと思う。
スピッツの歌詞は本当は怖いと話題に上がったりするが、それぞれの曲に世界観をもつ物語がありつつ、聴き手によって色々な解釈が生まれる余白が残されている。
そして、斉藤さんの1stフルアルバム「 quantum stranger」は、訳すと「量子的な旅人」になるそうだが、本当に色々な世界観の物語を旅して巡るようだった。短編集のようなアルバム、という感じがした。歌詞から世界観を読み解くファンの方の考察ブログがあるし、こうした意味でスピッツみを感じる。
スピッツは小学生の頃から聴いていたそうだし、エッセイの中でもスピッツと関連した章があって、きっと特別な音楽の一つなんだろうなと思う。また、きっとヘミングウェイの作品も読まれているから、上記の話もご存じなのではないかと思う。
そして、作り手がしっかり物語を生み出し、それを読んだ人聴いた人が色んな解釈を広げる関係性が生まれる、このヘミングウェイみというか、スピッツみというか、あぁ、何と言ったらよい…?!
…ともたもたしていたら、先日出されたインタビューでご本人が語っていた。
自分の楽曲は、どれもいわゆるメッセージソングではないんです。自分で書いたものもそうでないものも。自分がいいたいことを歌にしているのではなく、例えば「フィッシュストーリー」(1st single)であれば「フィッシュストーリー」という物語があるだけ。そこに自分の思いは関係ないんです。
これです。一つ一つの楽曲で物語が「ただ、ある」をつくり出す。物語の方が何かを伝えようと寄ってくるのでなく、私たちがそこにある物語の方へ訪れに行くのだ。
また、本質はあるけれど記述することはできないという仏教の「非我」という言葉を引用して、「曲ごとにいろいろな形で(「これが斉藤壮馬の音楽」を)表現できているっていう状態が一番理想的なのかも」とも語られていた。
「レミニセンス」で雨に打たれているのも、「結晶世界」でドーナツの穴をのぞき込んでいるのも、「デート」で女性にバイバイと言われてあっ、ちょっ…となっているのも、斉藤さんではないような感じもしていた。
各楽曲の物語の主人公ではなく語り手として、様々な物語を案内される形で斉藤さんの世界に触れることができるのが、「斉藤壮馬の音楽」の一つの要素にあるのではないかという気がしている。
ここに音楽まで表現方法に加わってしまったら…それは最強だ。そして、実際作曲もされていて最強だ。私は音楽に関してからっきしだが、作曲面でもわかる人は興奮するような巧みさがあるらしい。最強すぎる。
最後は音楽の話にまでいってしまった。
エッセイの中にあった「ただ、ある」とものを見つめる視線に、声優としてファンの期待に応えるだけでない、様々な物語が生み出される斉藤さんの音楽の魅力とのつながりを感じている。全部、私の思い込みの可能性もあるけれど。
「自分を解き放つ」の先で
これは他の方もブログでも見かけたことだが、「アニメ」などの特定の枠にとどまらず良さが伝わっていくといいなとも思う。もちろん声の演技も好きだ。でも、声優業のファンになってから文筆家、アーティストの面に惹かれていく人だけでなく、エッセイや音楽から斉藤壮馬の世界に惹かれていく人もいるのでは、と思うからだ。
そのブログの人はバンドサウンドに詳しい方で、CDを聴いて思わず友達をもったような気分になったそうだ。私も今回のエッセイで友達を見つけたような嬉しさを抱いた。いや、もちろん、おこがましすぎてもちろん実際に望むわけではないけれども。
何かこう、話したことないクラスメイトが自分の大好きな小説を手にもっているのを見かけた、みたいな、あぁ、それいいですよね?!気の合う予感がする…!みたいな、そういう感じだ。
彼の発信するものを、友達に会いに行くような気持ちで受信しにいくのだ。
そして、先のインタビューではファンの声に後押しをもらって、音楽での「声優・斉藤壮馬」の制限を取り払うことにした、とも語っている。
もしかすると、ディープな自分を表現していくということなので、「物語があるだけ」の表現から移り変わっていかれるのかもしれない。
いずれにせよ、見つけてしまってからもうすっかり斉藤壮馬の世界のファンになってしまった。ディープな部分まで解き放ったら、どんなものが生まれてきてしまうのか。
こちらこそ、そちらへ伺わせていただきます!という気持ちである。
▼インタビューはこちらです