誰からも奪えない、わたしの結晶――小川洋子『密やかな結晶』・三宅乱丈『pet』
小川洋子さんの『密やかな結晶』と三宅乱丈さんの『pet』は、その人間をその人たらしめているものは、記憶の結晶なのだ――という点でイメージをともにする。
小川洋子さん『密やかな結晶』
誰の奥にも密やかに眠るその人だけのもの――記憶――が、奪われることについての物語
『密やかな結晶』での”記憶”は、その人なりの色がつけられたその人だけのもので、生きてきた過程で結晶されてきたものと考えられる。
おそらくこの島では”鳥の記憶”が奪われるだけで、鳥自体が消えているわけではないと思われる。
鳥がいても、それが鳥という名前をもつと知ったり、あてもなく眺めたりしたエピソード記憶が失われるために反応ができず、存在に無感覚になる。つまり、世界に対してその人がしてきた脚色がはがれていくことになる。
三宅乱丈さん『pet』(わたしが観たのはアニメ)
他人の記憶に入り干渉する能力を持つ者たちによる闘いについての物語
『pet』での”記憶”は、人格形成と密接に結びつくものとされている。
特に最も大切な記憶のある場所「ヤマ」と、最も忌むべき記憶のある「タニ」は、2つ揃ってその人の根幹を形作っている。「ヤマ」や「タニ」が何らかの干渉によって壊されてしまうと、心の根幹から打ち崩されたその人は廃人と化してしまう。
そのため、どんなにその人を痛めつけている「タニ」でも安易に手を出してはならない。「タニ」もその人にとって必要である点が面白い。
(ほかにも特殊能力者について他者との感応能力が高すぎることによる自我形成の困難、それを救い特殊能力者に自我をもたらす「ヤマ親」「鍵」など、面白い設定がたくさんある、というかそれらが物語の軸)
嫌な思い出やふがいない思い出も、もう結晶の一部になっている。
はてさて、これはもうどうしようもないようだ。
いやしかし、何の創作物なども生み出していないわたしの存在のすべては、頼りないわたしのこのからだの中にある、このからだにおさまってしまうくらいの、
輪郭すらも判然としない記憶の結晶にしかないのだと思うと、やや危うい気持ちにもなる。
両作品とも主要人物が自己についての記憶を欠損し、実質的にその人が失われる最後を迎える。
その人の心の枢軸に結晶化させてきた記憶の結晶が失われ、容れものである体だけになる。
しかしながら、両作品とも、記憶を奪われる物語でありながら奪わせまいと闘うことを描いている。
この危うい気持ちへの不安をたよりに頼りない自分の結晶を守り、
誰かの結晶が脅かされていることに敏感でありたい。
踏切・人体の加工・ドッジボール
踏切で一旦停止する時…
対抗車線の車の運転手に目をやる
今日のひとは、踏切を渡るとき、右側をのぞいていた
踏切を渡る途上でしか見られないーーー曲がりくねる線路、線路横にそりたつ家家、先の見えない曲がり角…
線路の中に入ったときにしか見られない景色がすきだ
あの人もそれを見ていたのだろうか
☆
十数年ぶりに歯医者に行った。
歯を削る振動や音の圧に、人体の加工を感じた。麻酔に、人体の一部を外発的にある状態にすることの不思議さを感じた。機械の形を見ていないのに、先端の太さが瞼の裏に浮かんだ。
麻酔が切れて、痛みが鈍く到来してきている。
☆
最後のひとりになり、動けない女の子…
周りは動けばいいのに、動かないとこう着状態が永遠に続くからつまらない、動けばいいのにと思っている
だけど女の子は動けない
きっとその子の状況への取り組み方はもっと切実なのだ
わたしはその子と同じ状況に自分を置いてみせる。動き回り、わたしが近寄るたびに鬼の子たちが手を伸ばす様をみせる。そうやって、自分が動くことで相手の手が引き出され、その手にまた自分が反応して…関係が展開していくんだよという例をみせる。
恋は生もの ~『花束みたいな恋をした』
ずっと前になるが、数年務めたバイトの最後の日に、そのバイトで出会った大好きな先輩と『花束みたいな恋をした』を観に行った。
映画鑑賞後の帰りの車ではいつも観てきた映画についてあれこれと騒ぎ語るのだが、坂本監督が好きなその先輩は「恋は生ものってことだ」という旨のことを言っていた。
本作では麦くんと絹ちゃんが趣味がぴったり合うのをきっかけにぐんぐん惹かれ合い、恋人になる。しかし、次第にふたりは完全に”ぴったり”ではなく、しかもその違いをもちながら一緒にいるのが困難であることを悟って、別離することを選ぶ。
生花の花束は咲き乱れる瞬間を過ぎると枯れていってしまう、瑞々しい時期は限られている。恋も同じだと。
なるほどな、と思いつつ、同じようなことではあるけれども、私はすこし違った感じを映画から受けていた。
最近、創作物語は思考実験の部分があるよなと思っている。
本作品に感じたのは「完全に”合う”ようにみえるふたりの恋はうまくいくか?」だ。
あれもこれもと趣味が合って、同じ喜びを共有することができて、「こんなに合う人がいるなんて!」と思っていても、必ずしもうまくいかないということだろう。
当然のことともいえる。
確かに、”なんでも気が合う人”は居心地がいい。色々な考え方も自分に近いであろうから自分をありのまま出しやすいし、色々な場面でストレスが少ないだろう。人生のパートナーになることを見据えるのだったら、同じ方向を目指して二人三脚してくれる人であるという安心感は重要だ。
しかし、パートナーも別個の人間であり、お互いの環境がそれぞれに変化していくことを踏まえればずっとなにもかも”ぴったり”であり続けるのはちょっと難しい問題だと思う。むしろ”違い”を発見し、それをすり合わせたり、それ込みでふたりの関係をつくる過程が、「ふたりの恋が終わる」結末を避けたいのであれば重要なんだろうな、と映画をみて思った。
”現時点でのぴったり”が恋人になる確証となりえないとすれば、恋人の相性とは…?マッチングアプリとは…?と思考がとんでいく。
マッチングアプリを通してパートナーになる方はみえるであろうが、実際何がマッチングしたのか。ほんとうに宣伝にあるような趣味の分布図のマッチ度が決め手になっているのか。
人はどんな人ともパートナーになれるとはいえないとも、どんな人とでもパートナーになれるともいえそうな。
それを「全く趣味が一致する」というコメディ風味な設定で思考実験された映画であるように感じている。
ふたりが一緒にいるためには、どの時点でどうすればよかったのか…ふたりが辿った数年間的にあの結末以外には考えられないか…
恋は二人の間に生まれる生ものであることについて考えさせられる映画でありました。
あと、お互いの「麦くん・絹ちゃん」呼びと衣装がかわいかったです。
祈ることについて
3月11日に下書きされていたもの。
*
黙祷をスーパーで迎えた。
いつもの放送に交じって黙祷の趣旨が語られ、やがて黙祷の号令がかかり、その場で買い物かごを腕にぶら下げながら目を閉じた。
それにしてもここは邪魔かもしれないと思って、隅に移動するため、目を開ける。
野菜の棚の向こうに、同じく買い物かごを腕にぶら下げながら黙祷している一人の女性の姿が見える。
両手を顔の高さで合わせて、その手に頭を預けるような形で、どこか遠くへ言葉を届けたいと強く願う姿に見えた。
祈ることについて。
黙祷は、スイッチを入れたように同じタイミングですることを強いられるものではないのだろう。個人的な行為。一方で、みんなで一斉にする儀式的な側面によって達成されているものも少なからずあるようにも思われる。
3月の100分de名著は、災害とともに生きる私達のテーマで、4冊の本を紹介していた。
その第2回、柳田国男『先祖の話』の回で、伊集院光さんがお墓参りにはセルフカウンセリングの側面があるかもしれないとコメントされていた。
天国は生きて残された人のためにあるという考えを聞いたことがあるが、死者を弔う儀式は、生者が死者と対話し、その人が亡くなったことを自分の人生に組みなおすための儀式でもあるのかもしれない。
それは、一人でゆっくりしたいものだと思う。
数年前祖母が他界した。私にとって初めての身内の死、初めてのお通夜、初めての葬式だった。
死者を弔う数々の儀式には何度も手を合わせる場面があるが、私は他の人がそばにいるのはちょっと嫌だ。別に誰からも見ていないかもしれないが、なんだか心が浮いて落ち着かず、いつも周りのタイミングを見計らうようにして目を開ける。
スーパーで黙祷しているとき、涙が出そうになった。
あの時、他のお客さんが少なかったため一人でたたずむことができ、
被災された方々が安らかに眠れるよう祈ることに集中できたから
そして、野菜の棚の向こうで祈る女性が、スーパーのような人の行き交う場でも一生懸命自分の中で祈りの相手と対話し、声を届けようとする姿に胸を打たれたからであると思う。
関係性に言葉をのせる
3月くらいに下書きされていたもの。
*
最近、ニュースなどを見ていて
この人は誰に向かって話しかけているんだ?なぜ視聴者が高説を賜っているような気分にならないといけないのだろう?とか、なんでコメンテーターは行政の要人にそんな口調で私見を喋ることができる?と感じることがある。
政治家だけってわけじゃない、
防災カウンセラーの人、コメンテーターの人、司会者の人…
「それが仕事だから」…?
人から話を聞いたり、自分の意見を述べる特権が自分にあるように思えるときは、危険でもある気がする。
職務を果たそうとするうちに権利を拡大解釈したり、何か大事なことを忘れてしまわないようにしたい。
相手にその話をしてもらうには、本来なら相応の手続きが要るのでは?みたいな違和感を最近感じるようになった。でも、一方でそれは仕事としてしているのであって、してよいかどうかというよりも、仕事だからするしかないというような。不確かなモヤモヤを感じることがある。
Some people compare the moon to…
わたしはよく月をチェダーチーズにたとえる。
低い空に判を打ったように輪郭がくっきりと、
黄金色が濃い味のチーズのようで
時には、夜空がこの世界をドーム状に覆う天井で、
白く発光する月が、ドームの外への扉のように思えることもある。
それは大体月が一番高いところにあがっているとき。
母。
顔がそっくりだとよく言われてきたけれど、
服とか、本とか、映画とか、好みがずれていることが多い。
変わったことしない方がいいとか、そういうところも。
この前の満月を一緒に見ていた母が、唐突に
「真ん中みたい」と言った。
「花火の。線香花火の。」
斜め下を向いた顔がそっくりだと自分でも思ったことがある。
やっぱり思考の根っこは似ている気もしている。
否応なしに母に似ていることをひとつひとつ確認していくような日々
それは、母はこういう人だというのが自分の中にあって、
それと似ているかどうかを重ね合わせていく過程
それと逆のことが起きた。
月を何かにたとえて遊ぶのを、母もするなんて
母の中に、自分と似ているところを見つけた。
思えば、実家を出て過ごし、色々な大人の例をみたことで、家族をみる目というのはすこし変わっていたのだ。
たまに帰れば、すこし客観的な気持ちで家族のことをみていたりする。そして、その中にある自分のことも。
目に映っているのにも気づかなかった、「家族はそれぞれ、”人”の中でもこういう人なんだ」というのを見つける過程でもあった。
親子の縁からはじまり、人間同士としても、このひとのことを理解しようとして、改めて傍に居直す。
これから、これをしていくのだ。
「満月が線香花火の真ん中みたい」と言われて、
わたしは「いいね」と返した。
母を、かけがえのない人だと強く感じた。
24歳6ヶ月「たけくらべ」にであう
美登利と信如、時雨の中の無言劇。
美登利役の北島マヤが布をキリッと噛む
ーー審査員たちが「うまい!」と唸る。
これは、わたしのバイブル『ガラスの仮面』の劇中演劇、「たけくらべ」の一場面だ。
”一見平凡な主人公が圧倒的才能で周りの人間を唸らせる”系の物語が大好物なわたし、
小学生のときに読んだ『ガラスの仮面』がそのきっかけだったのかもしれない。
『ガラスの仮面』を通して『嵐が丘』や『若草物語』などを知ったのだが、『たけくらべ』もその一つ。冒頭のシーンが大好きである。
さて、この度、その『たけくらべ』原作を読んだ。
まず本屋さんで手に取ってみてびっくり、全然読めない。
『たけくらべ』は雅文体(がぶんたい)や擬古文(ぎこぶん)と呼ばれる文体とのこと。平安文学や、古文のいでたち。
最初に原文のみの本から入るのはやめた。かといって、現代語訳だけも侘しい。
物語の内容を現代語訳で理解できながら、原文の雅さも物語と同時に味わうことができる文庫・・・原文と現代語訳を行ったり来たりしたくない・・・さらに解説もいいものがいい・・・
本屋さんで見た本は棚に戻し、理想の書を求めて熱帯雨林へ旅に出た。欲望をいくつも抱えたまま商品欄とにらめっこした結果、角川書店のものがよさそうだったので注文した。
こちら。結論からいうと、めちゃめちゃめっちゃ良かったです。
レビューには「間に解説がはさまりすぎてちょっと」的なコメントもあったが、個人的には一葉のすごさを感じられて、高まる気持ちで作品に臨むことができた。
解説がくると嬉しくなるほどで、オールオッケーだった。
(ただ、本文から自分でわかるより先に「この時点で美登利と信如は両想いである」との前提で解説が進んだときは、頭で理解できても心で納得するまで時間がかかった。)
物語のこと、当時のこと、作者一葉のこと、様々な解説がある中で一番好きなのが、
作者から子どもたちへの「慈愛深い」まなざしというところ。
登場人物それぞれについて、容姿や家庭環境といった外見にとどまらず、「子どもの心の内部に分け入って、大人とは違う独立した人格に迫っていく。その慈愛の深さは比類がない。」(p.69)
「たけくらべ」とは”背たけくらべ”だけでなく、”心のたけくらべ”でもあるという。
子どもから大人へと向かいつつあるが大人とも言い切れない、この微妙な時期に織りなされる物語。
精一杯生きる子どもたちの喧嘩やすれ違いが魅力的なのは、作者がそれぞれの登場人物を一人の人間として捉えていて、そんな彼らが関わり合いながら生きていく様だからなのだろう。
その根が一人一人の子どもへの慈愛にあるというところが、人間賛歌的で、なんともいいなと思う。
ところで、樋口一葉は享年24歳。
1872年5月2日に生まれ、1896年11月23日に亡くなったとあるから、24歳と6か月の人生だったことになる。『たけくらべ』は23歳に書き始められた。
「流星のような作家人生」(p.258)とあるが、きっとぴったりな表現なのだと思う。
瞬く間に現われ、まばゆく輝き、そして瞬く間に消え、目撃した人々の心に大きな余韻を残す流れ星。
実は、『たけくらべ』を読んだとき、わたしも24歳6か月だった。
偶然とはいえ、なにか運命のようなものを感じたり。
と同時に、子どもへの慈愛のまなざしや、思春期の心のたけくらべをこれほど的確に捉えられるのだろうか…とやや呆然とした。それを文学の形に仕上げるなど。まして、平安文学の雅を取り入れながら…24歳…
24歳6か月で『たけくらべ』、そして樋口一葉の人生に出会ったご縁に
もっとこの方のことを知っていきたいと思う。
ちなみに、『ガラスの仮面』の「たけくらべ」で好きなシーンがもう一つ。
うろ覚えなので台詞が正確でなくてよくないのだが、
正太さんが遠い目をしながら呟く
「たけくらべをした昨日は もう戻ってこないんだろうか…」
美登利と信如の恋物語というだけでなく、他の登場人物も含めた子どもたちの物語だということを思い出させてくれる。
楽しく子どもでいられた日にはもう戻れない、僕たちは大人になっていくから…
取り返せないあの日々を想う切なさ、自分たちではどうしようもない大きなものに巻き込まれながら変化していくことを受け入れる眼差し
そんなものが感じられて、「なぜか心に染み入る」1コマだと思う。